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最高裁判所第三小法廷 昭和63年(オ)1421号 判決 1992年10月06日

上告人

学校法人花園学園

右代表者理事

村口素高

右訴訟代理人弁護士

前堀政幸

折田泰宏

中村広明

加地和

三谷健

被上告人

三枝泰造

被上告人

三枝昌子

右両名訴訟代理人弁護士

佐古田英郎

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人前堀政幸、同折田泰宏、同中村広明、同加地和、同三谷健の上告理由について

原審は、(一) 被上告人らの二男である亡三枝環は、上告人が設置する花園大学に昭和五八年四月に入学し、応援団に入団したが、同年八月二八日、二九日に学外で実施された応援団の夏期合宿練習において、上級生から気合入れの名の下に違法な暴行を受け、右暴行に起因する急性硬膜下血腫に基づく脳圧迫により同年九月六日死亡した、(二) 応援団は、学生の自治組織である学友会から公認されない有志団体として結成され、大学構内の建物の一部を上告人に無断で占拠し、部室として使用していたが、上告人から黙認されており、構内において練習を続けていたほか、年一回講堂を借り、乱舞祭と名付けて、学長の挨拶文も掲載されたパンフレットまで用意し、練習の成果を学内で発表していた、(三) 昭和四六年ころ以降大学の非常勤講師が応援団相談役に就任しており、また、昭和五六年に学内で開催された講演会を一部の学生が妨害する挙に出た際、大学当局が応援団に当該講演者の警護を依頼したこともあった、(四) 応援団においては、気合入れの名の下に、上級生から下級生に対する、手拳で顔面を殴る、腹部などを足蹴りし、竹刀で臀部を殴るなどの、度を超える違法な暴力行為が恒常的に公然と行われ、大学当局もこれを十分に承知していた、(五) 環が入団した昭和五八年四月以降、大学当局に対し、応援団に入団した新入生の退団希望を認めてもらえない等の苦情が持ち込まれ、顔面打撲の診断書を示す者さえあったので、同年六月、大学の各部長を構成員とする執行部会議は、自由な退団を認めるよう応援団を指導することを決め、学生部長が応援団の幹部である上級生らにその旨を伝え善処を求めたが、右幹部らは、殴ることも練習の一部で暴力ではないと弁明し、その論は社会的に通用しないという同部長の説得にも応じなかった、(六) そして、応援団は、その後も気合入れを伴う練習を続け、大学当局側は直接これを是正させる措置を採らなかったところ、本件死亡事故が発生した――以上の事実を確定した上、右事実関係の下においては、同大学の執行部会議、教授会等は、応援団に対し、暴力行為を止めるよう強く要請、指導し、応援団がこれに従わない場合には、部室として使用されている建物の明渡しを求め、あるいは練習のための学内施設の使用を禁止し、応援団幹部に対する懲罰処分(停学、退学など)を行うなどの具体的措置を採る義務があったのに、これを怠った過失があり、したがって、上告人は不作為による不法行為に基づく責任を負うと判示した。

原審の右事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯するに足りるところ、右事実関係の下においては、上告人の被用者である前記執行部会議、教授会等の構成員たる職員は、原判示の具体的な作為義務を負うに至ったものであり、かつ、このような措置を採ることは上告人の事業の範囲に属するものと解されるから、上告人には民法七一五条一項に基づく責任があるというべきである。上告人の責任を肯定した原判決の判示中には、学校法人自身の在学契約上の義務と当該学校法人の被用者の不法行為法上の注意義務とを混同しているかのような部分があって、その説示において必ずしも適切でない憾みがあるが、以上の趣旨をいうものとしてこれを是認することができる。論旨は、採用することができない。

よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官坂上壽夫 裁判官貞家克己 裁判官園部逸夫 裁判官佐藤庄市郎 裁判官可部恒雄)

上告代理人前堀政幸、同折田泰宏、同中村広明、同加地和、同三谷健の上告理由

第一、法令違反

一1、原判決は、「安全配慮義務は、ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者間において、当該法律関係の付随義務として当事者の一方又は、双方が相手に対して信義則上負う義務として一般的に認められるべきものであり、その具体的内容は、当該法律関係、当該具体的状況などにより異なるものであると解されるところ、控訴人(上告人)主張のように支配管理の有無によって安全配慮義務の有無が決せられると一律にいうことはできず、支配管理の状況も右義務の具体的内容を決する一事由となるというべきである」と判示している(原判決書理由第一項12)。

右は、安全配慮義務の解釈・適用を誤ったものであり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。

2、すなわち、昭和五〇年二月二五日付最高裁判決によると(民集二九の二の一四三)、安全配慮義務とは「国が公務遂行のため設置すべき場所、施設もしくは器具等の設置管理又は公務員が国もしくは上司の指示のもとに遂行する公務の管理にあたって、公務員の生活及び健康等を危険から保護するように配慮する義務」であること、「右のような安全配慮義務は、ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者間において、当該法律関係の付随義務として当事者の一方又は双方が相手方に対して、信義上負う義務として一般的に認められるべきものである」旨を判示している。

3、ところで、右の安全配慮義務の実際的内容を如何に解するかについては次の諸説がある。

①、使用者が、業務遂行のために設置すべき場所、施設もしくは器具等の設置管理又は勤務条件等の支配管理に当って被用者の生命、身体を危険から保護するよう配慮すべき義務と解する見解(第一説)。

②、右の義務にとどまらず、使用者の支配管理を受けて業務に従事する者が業務遂行上危険の発生を防止するために尽くすべき注意義務がすべて使用者の安全配慮義務の内容となるとする見解(第二説)。

③、使用者は、被用者の生命、身体に対する安全それ自体を確保するという高次の安全配慮義務を負うとする見解(第三説)。

右の内、第一説の見解が妥当である。なぜなら、前記最高裁判例の趣旨は、使用者が被用者に対して負っている安全配慮義務は、ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った使用者と被用者との間において使用者が業務遂行のために設置すべき場所、施設もしくは器具等を設置管理し、又は、被用者の勤務条件等を支配管理することに由来するものとしておると解せられ、それ故にこのような限定された関係の範囲を超えた安全配慮義務を負わしむべき根拠も理由もないからである。

4、次に、前記最高裁判例のいう「特別な社会的接触の関係」の意味が問題となる。この点については、右判例にいわれている「ある法律関係」には雇用契約関係の外に如何なるものがあるのかを考えると、委任契約、請負契約などに思い到るのである。ところで、前述の安全配慮義務の具体的内容に関する諸説において見受けられるように、いづれの場合でも使用者と被用者との間の「支配管理」の関係という考え方が言われているのである。もともと前記最高裁判例においては「場所、施設もしくは器具などの設置管理にあたって」とか「遂行する公務の管理にあたって」とか判示して「管理」という用語を用いるに止めているが、説をなす者の間では「支配管理」という用語が多く用いられているのである。しかし「支配管理」という言い方が正しいのではあるまいか。なぜなら、物又は人の行為を「管理」するためにはその前提として物又は人に対する「ある支配」ができておらなければならないし、物又は人の行為を「支配する」ことができるのは物又は人に対する「ある管理」ができておらなければならないからである。

そして、そのような「支配と管理」との関係は社会的に相互に関連するから前記最高裁判例に言うように安全配慮義務は「特別関係」に入った当事者の一方だけでなく双方が信義則上負うべき義務となるのである。

ところで、例えば雇用契約、請負契約、委任契約等の債権債務を成立させる法令が、その効力として、その法律関係の当事者の支配及び管理について効力を具体的に定めているわけではない。なぜなら、そのような「支配と管理」との関係は社会的関係であって、これを法律的具体的に規定することはできないからである。それ故このような「支配と管理」の関係は一定の法律関係に基づいて社会的に成立する特別な社会的接触の関係であると言うことができる。

5、そうだとすると雇用契約に限らず、請負契約、委任契約その他諸々の契約又は法令に基づいて当事者の間で社会的に「支配と管理」の関係が成立すると認められる法律関係のもとでは当事者の間で安全配慮義務が尽くされなければならないことになるのである。

すなわち「支配と管理」があるところには安全配慮義務があるのであり、「支配と管理」がないところには安全配慮義務はないのであると言うことができる。

6、このことは、そもそも安全配慮義務というものがどのような背景で出てきたものかを究明する必要がある。

もともと、安全配慮義務は、労働災害を使用者の債務不履行として構成する努力から編み出されたものと言われる(福岡地裁小倉支部昭四七・一一・二四判決、判タ二八九・二七三、東京地裁昭四七・一一・二四判決、判タ二八九・二七三)。これらの判決は、使用者に「雇用契約上の保護義務」違反を認めた。その後、この債務不履行責任としての追及は、労災補償の不備を補うものとして、消滅時効の期間や立証責任の点についても被害者に有利であるとして裁判例の主流となるに至った。こうした時期に前記最高裁判例が登場するに至ったのである。この最高裁判決は、自衛隊員が隊内の車両整備工場内で車両整備中に、同僚隊員の運転する自動車に轢れて死亡したという事案である。

この最高裁判決が、安全配慮義務というものを単に雇用契約や労働契約に限らず、「ある法律関係に基づく特別な社会的接触の関係」という領域を対象とするとして、他の契約内容に及びうる可能性を判示したために、その後この義務は裁判例において飛躍的に活用されるに至った。すなわち請負契約、職業病、学校事故、欠陥商品、自動車事故の分野にまで適用範囲が広まっていったのである。本件のような学校事故に類する事件についても、これを認めた山形地裁昭五二・三・三〇判決(判例時報八七三・八三)がある。その他結果的に学校の責任を否定しているが、学校当局、学校設置者にその生徒、学生に対して安全配慮義務を負担することを認めた裁判例がある(長野地裁昭五四・一〇・二九判決、判タ四〇一・一一〇、東京地裁昭五五・三・二五判決、判タ四一四・八三)。しかし、これに対して消極的な裁判例(盛岡地裁昭五二・二・一〇判決、判タ三六〇・二三二)もあり学校事故、クラブ事故についてはまだ定着しているとは言えない。なお、右盛岡地裁判決は、国立工業高等専門学校における課外活動練習中の事故について「国が国立学校の学生に対して就学契約上の安全配慮義務を負うとの見解は、いわゆる『安全配慮義務』『安全保証義務』なる観念が元来、私法上の雇用契約において、使用者が被用者に対して負うものとして認められてきたものであり、一方、昭和五〇年二月二五日最高裁判所第三小法廷判決も右法理が国と国家公務員との関係においても適用されるべきことを説いたにすぎないことを併せ考えると、本件について直ちに右見解を採用することは多分に疑問なしとはしない」と述べている。

すなわち、安全配慮義務というものは、労災事故を雇用者の債務不履行とするための武器の理論として開発されたものであり、雇用契約や労働契約の場で利用されたものであるという事実を確認しておく必要があり、その適用については「労務提供の場で、『指揮監督』なり『使用従属』関係の実態を備えている」というような実態関係が必要であると言うべきである(國井和郎「裁判例から見た安全配慮義務」日本評論社・安全配慮義務法理の形成と展開二〇頁)。すなわち、安全配慮義務は、労務提供に伴う場所、設備における危険性とこれに対する安全配慮の必要性という関係から生ずるものであり、雇用者が使用者に対して支配管理する関係の中で、使用者の生命・健康の安全を配慮すべき義務なのである。従って、安全配慮義務を問うには、契約関係(契約関係に類するものでもよいが)の存在と使用者側の右義務の不履行という事実が必要であり、その不履行は当該契約目的である業務の履行あるいは業務上の指示・命令の遂行に伴う危険に対する配慮義務の不履行に限定されるのである。名古屋地裁昭五六・九・二八判決(下民集三一・一―四・三七四)は、呉服、宝石等の卸売会社の従業員が、社屋に宿直勤務中盗みに入った同社の元従業員に殺害されたという事案で、会社の安全配慮義務を肯定したが、この中で「使用者にとって管理しえない事由あるいは予見しえない事由によって生じた危険についてはもともと使用者に防止義務を課することはできない」として安全配慮義務の適用限界を明らかにしている。

学校関係の事故についても、この安全配慮義務の理論を適用しようとすれば、以上見たように「支配と管理」の関係が成立することを前提としなければならない。例えば、仙台地裁昭六一・五・八(判タ五九九・八二)は、国立大学の研究室で火薬爆弾を利用した実験の準備作業をしていたところ、火薬が爆発し助手が死亡した事故で、「本件実験は、公務そのものであるが、第一義的には、……を含めた専門家集団たる実験者自らに能う限りの自主性が尊重されるべき、また現に尊重されてもいた学問・研究の一環としてなされたものであり、従ってまた、右研究に必要とされる人的及び物的環境の整備も実験者自らの専門的知識、技術に基づいて支配的に決定、管理していたものである」として、この実験は国による「支配管理」が認められないとして国の安全配慮義務を否定したのである。

以上のとおり、原判決は、「安全配慮義務」の解釈適用を誤ったものであり、このために本件において上告人学校法人と応援団に加入していた学生との間の「管理支配」の関係について審理を尽くさず、漫然と「応援団活動は、控訴人の教育活動そのものであるとは言えないが、控訴人の管理する学園におけるクラブ・サークル活動として少なくとも控訴人から容認されていたといいうるから、前記のとおりの控訴人の管理の権限及び義務に伴い、これに参加している学生の活動に関しても控訴人の安全配慮義務が及ぶ」と判示したのである。

従って、原判決の右解釈が判決に影響を及ぼしていることは明らかである。すなわち、上告人としては、右判示のように応援団活動について容認していたものではないが、仮に容認していたとしても、これに対する管理・支配関係の有無とは別なものである。また、原判決の意味する控訴人の「管理の権限及び義務」とは、学校教育法を根拠として「控訴人は、大学教育を行うものとして、大学自治の要請のもと、学内において高等教育が行われるにふさわしい秩序を維持し、これに反する違法状態を是正し、違法状態を排除すべき第一次的権限と義務を負い、その為、大学の施設につき、また大学の右構成員に対し、適切な管理の権限と義務を有する」というのである。この指摘は抽象的には妥当であるかも知れないが、大学との関係は、あくまで教育・研究目的という目的達成のために管理権が伴うものであり、従って大学教育の場の内にその管理権は限定されてくるものであることを認識する必要がある。

二1、原判決は「応援団活動は……(中略)……控訴人(上告人)の管理する学園におけるクラブ・サークル活動として少なくとも控訴人(上告人)から容認されていたといいうるから、前記のとおりの控訴人の管理の権限及び義務に伴い、これに参加している学生の活動に関しても控訴人(上告人)の安全配慮義務が及ぶということができる」旨判示する(原判決書理由第一項、12)。

しかしながら、本件においては上告人と訴外三枝環との間に成立していた法律関係からは「支配と管理」の「特別関係」、及びそれに基づく安全配慮義務が存在していたとは、到底認められないのである。以下、このことについて詳述する。

2、先ず上告人が設置している花園大学と訴外三枝環との間に成立していた法律関係について考察する。

ところで「私立学校においては、建学の精神に基づく独自の伝統ないし校風と教育方針とによって社会的存在意義が認められ、学生もそのような伝統ないし校風と教育方針のもとで教育を受けることを希望して当該大学に入学するものと考えられるのであるから、右の伝統ないし校風と教育方針等を学則等において具体化し、これを実践することが当然認められるべきであり、学生としてもまた、当該大学において教育を受けるかぎりかかる規律に服することを義務づけられるものといわなければならない。もとより学校当局の有する右の包括的権能は無制限なものではありえず、在学関係設定の目的と関連し、且つその内容が社会通念に照らして合理的と認められる範囲においてのみ是認されるものであるが、具体的に学生のいかなる行動について、いかなる程度・方法の規制を加えることが適切であるとするかは、それが教育上の設置に関するものであるだけに、必ずしも画一的に決することはできず、各学校の伝統ないし校風と教育方針によっても、おのずから異なることを認めざるをえない」とされる(最高裁第三小法廷昭和四九年七月一九日判決、民集第二八巻第五号七九〇頁以下)。

従って、花園大学と同訴外人とは、その「在学契約」の成立、存在に基づいて特別な社会的接触の関係に入ったのであり、その故に花園大学は同大学学則等が定めるところにより同訴外人に対し叙上の合理的な範囲において一定の管理支配の関係を有するに至り、その限りにおいて花園大学が同訴外人に対し安全配慮義務を負っていたと一応は言えそうである。

3、しかしながら、ここでの同大学の同訴外人に対する安全配慮義務は、同大学が同大学学則等が定める範囲において直接同訴外人に対して負うものであったのであるから、同訴外人の生命身体に対する危険であっても、同大学が実施する教育作業又は教育活動と関係がないところの同訴外人の私生活一般とか同大学の施設外とかでの行動の機会に生ずるおそれのある危険、例えば本件の同訴外人が応援団員として合宿に参加していた間の出来事の危険についてのものではない。

以下このことについて詳述する。

4、花園大学応援団(以下、応援団という)について、花園大学がこれを管理支配していた事実は一切ない。すなわち、応援団は、井上峰一が中心となって結成されたものであるが、花園大学はこれになんら関与していない。また同大学は応援団に部室の使用を許可したことはなく、応援団がプレハブ製の建物を不法占拠し、勝手に部室として使用していたにすぎない。このような場合、花園大学は応援団によるこの不用となっておる同部屋の使用方法が平穏かつ公然であるかぎり、意地悪にこれが使用を禁止し排除する必要を認めなかったが、このことが花園大学が応援団を公認していたとか、応援団を援助していたとか応援団を利用しようとしていたとか言われる理由にはならない。いわんや、それが花園大学が応援団員の生命身体の安全配慮を怠ったと言われることにはならない。

けだし同部室には工作物としての瑕疵があるとは認められてなかったし、その使用方法にも応援団員の生命身体に対する危険な状況があるとは認められなかったのである。また昭和五五年に行なわれた応援団の乱舞祭に際し、学長大森曹玄がパンフレットに挨拶文を掲載しているが、これは同人が応援団から挨拶文の執筆を依頼された際、特に拒否する理由もなかったので、一般の例に従ってこれに応じたもので、応援団だけに挨拶文を寄せたわけではない。水野泰嶺は、井上峰一から個人的に依頼され名目上の相談役になったにすぎず、実質的権限は何もなく、もとより花園大学から就任を依頼したわけではない。

そもそも花園大学においては昭和四四年の、いわゆる大学紛争時に、教授会と学友会との間で、それまで学則に定められた学生に対する処分権(懲戒権)を凍結し、学生心得に定められた団体の結成、会合の開催等についての大学側の許可権を撤廃したのである。従って、教学に関する限り学生を管理すべきは当然としても、それ以外の自主的行為、活動に関しては学生を管理する権限も義務もなく、学生の自主的組織であるクラブに対しても、同様に管理権も義務もなかったのである。

5、以上のように、花園大学は、在学契約に基づいて、学生が大学の施設の内外で実施される教育活動に参加している間、又はそれに参加したことに関連して、その身体、生命に生じる危険を防止する安全配慮義務を負うが、クラブ活動に参加した学生のクラブ活動に伴って生じる生命、身体についての危険を未然に防止するなどの安全配慮義務は負わない。

百歩譲って、クラブ活動に対して学校側に何等かの安全配慮義務が認められるとしても、少なくとも、学校側の関知しえない学外での合宿訓練においては、学校側は管理権を行使する術がなく、安全配慮義務を認めることは不可能を強いることである。

従って、本件のごとく訴外人が応援団員として合宿に参加していたことから生じる生命、身体についての危険を未然に防止するなどの安全配慮義務を花園大学は負わないというべきであり、かかる義務を肯定した原判決は安全配慮義務の解釈、適用を誤ったものであって、右が判決に影響を及ぼすことは明らかである。

三1、原判決は、環が応援団活動に積極的に参加し、前記気合い入れを容認し、これを甘受し、控訴人にこれを告知せず、なんらの苦情も申し出なかったことは前記のとおりであるが、応援団では前記気合いを入れると称する暴力行為が前記のとおりの態様で常時行なわれていたのであり、控訴人はこれを知っていたのであるから、春、夏の合宿を含めた練習中に、応援団員、とりわけ一回生の応援団員の生命・身体に対する侵害の危険が恒常的に存在することを予見することは可能であったということができ、それは環からの個別的告知、苦情の有無にかかわらないというべきである。そして、本件が控訴人の主張する危険への接近の法理の適用によって控訴人の前記責任の免除されるべき場合でないことは明らかであると判示する(原判決書第一項末段)。

2、しかしながら「気合いを入れる」と称されておる行為が果たして法律的意味での「暴力的な」と評価する以外になんらの意味をもたないのかについては疑いがないではない。何故なら、それを宗教的意味での逸脱した修練であって、当事者間で了解が存続しておる限り法律的に問題とすべきでない場合もありうるからである。

現に三枝環が「気合いを入れる」暴力的方法を、応援団という或る種の宗教的興奮状態的心理団体の修練手段と理解し、これを受容していたのではないかとの疑いがあり、この疑いを否定するに足りる証拠はないのである。

3、ところで、原判決が判示するように、応援団を捉さえて恒常的に暴力行為を行う団体であるとするならば、応援団はいわゆる「暴力団」に類する不法集団とも言うべきこととなるが、それにしても花園大学は国法にも定められていないような、解散命令を出すこともできなければ、解散に代えて応援団員会員を退学処分に附して学外に放逐することもできないのである。

4、そうだとすると、花園大学は何をすればよいことになるのであろうか。

①新入学生や在学生らに対し予防措置として応援団に参加しないよう、又は応援団から脱会するよう指示することができるであろうか。それは応援団及び学生の結社の自由と学生の自治を犯すことになるであろう。

②そこで花園大学がなしうることは「気合い入れ」が暴力だったとして非難される出来事が起るごとに、これを取り上げて教育的訓戒指導を行うほかに適切な方途はないのではあるまいか。

イもしそうであれば、そのような対処は花園大学がこれまでに講じて来ていたところである。

ロしかしその効果がその出来事の処置を通じて将来への予防の効果を願望し期待すること以上の効果を発揮するかどうかは花園大学だけの力ではどうにもならないことである。何故なら、このような効果を得るか否かは、花園大学の安全配慮の範囲を超えた領域即ち花園大学の安全配慮を有効に受容れる学生の態度如何の領域にかかわることであるからである。

5、ところが本件においては、原判決が判示するとおり三枝環は一回生ではあったが応援団活動に積極的に参加し、応援団が行う「気合い入れ」を容認し、これを甘受し、これを花園大学当局に対し告知せず、何らの苦情も申し出なかったのである。

①このような三枝環の態度は応援団に関する限りでは、花園大学が応援団及び応援団員である同人に関してするか又はなさんとする安全配慮を「無用とする」態度であると言うべきであって、同人は一般大学生の知識経験から言えば暴力行為とも言いうるところの応援団がする「気合い入れ」行為を、同人が同人の知識、経験にもとづいて抱くに至っていた信條信念、殊に或る種の宗教的心情に即して、自己の生命、身体に危険であって、回避すべき暴力行為ではないとしてその暴力性を否定し、自ら望んでその危険に接近せんとしていた態度であったと認めることができる。

②ところが本件において、花園大学の義務とされている三枝環に対する安全配慮義務は、先に引用した最高裁判所判例によるも、いわゆる在学契約に付随して花園大学と三枝環との間に信義上成立するものである。

このことを考えると安全配慮義務の履行とその受領との関係においては、安全配慮を請求しうる債権者である三枝環は債務者である花園大学に対して自己に対する安全配慮を受領せんとするためには、花園大学が履行すべき安全配慮義務の対象となる三枝環に対する生命、身体の危険が現存する事実を可能なかぎり速やかに告知して花園大学の安全配慮義務の履行を求める措置に出ずべき信義上の義務があったと認められる。

何故なら、このような危険告知の義務は、それ自体が三枝環の花園大学に対する安全配慮義務には該らないけれども、安全配慮義務が契約法に付随して成立する関係上その義務内容は広汎にして予測しがたい場合があるところ、安全配慮対象となる危険の発生、又は現存に関する状況が、これを直接知る者(債権者)から安全配慮義務者(債務者)に告知されなければ債務者が安全配慮義務を履行することができないからである。

このことは、民法第一条第二項に定める信義則上当然のことであるというべきである。

③そこで三枝環が、原判決判示のとおり、応援団に関するかぎり「気合い入れ」の存在についての危険を容認甘受してこれを花園大学に告知せず従って好んで危険に接近した事実が認められるのであるから、三枝環は信義則に反しておるのでありそれ故に花園大学に安全配慮の義務履行を求める権利も理由もない。

④またこのように三枝環が自ら好んで危険に接近した事実は同人が花園大学が履行すべき安全配慮を拒否していた事実とも認められるから、同人の死亡と花園大学の安全配慮義務との間には因果関係が認められないのである。

6、従って上告人は三枝環の死亡につき、その損害を万障賠償する義務がない。

しかるに原判決が上告人に原判示の損害賠償を命ずる判決をしたのは安全配慮義務の履行に関する法令解釈を誤っておるのであり、その誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかである。

四、原判決は、安全配慮義務の内容について、法律の解釈、適用を誤っている、すなわち、原判決は「応援団は、特異な論理によってこれを正当化し控訴人の単なる指導ではこれを是正しなかったのであるから、控訴人は……暴力行為を止めるように強く指導し、要請し、……建物の明渡しを求めるとか、練習のための学内施設の使用を禁止する、……さらに応援団幹部に対する懲罰処分を行う旨の警告、それにも拘らずこれに従わないときは、(これらを)現実に行う」などの具体的措置を執る義務があったとするのである。

原判決は、右義務の前提として「違法な暴力行為が恒常的に行われ、大学当局がそれを承知していた」こと、「春・夏の合宿を含めた練習中に、応援団員、とりわけ一回生の応援団員の生命・身体に対する侵害の危険が恒常的に存在することを予見することが可能であった」ことを事実認定しているが、これは全くの事実誤認である。

しかしながら、右認定事実を前提としても、前項でも詳述したように、例えば本件のような具体的な事故、あるいは事故とまでは行かないでも学内で暴力行為が堂々と行われている場合はともかく、一般的に学校側が応援団に対して執りうる処置は、応援団に対して注意を申し入れるだけであり、そしてそのことは実施されてきたのである。

原判決の根本的に誤っていることは、この事件の被害学生に対する安全配慮義務とは、上告人とこの学生との間の具体的な関係であるにも拘らず、その根拠として指摘する義務違反の事実については抽象的な指摘にとどまっているということである。

すなわち、本件被害学生について現実の被害があり、また被害が相当程度予測されるという具体的な可能性があり、学校側がこれを認識しているか、あるいは認識すべきであったという事情が認定されない限り、学校側に安全配慮義務を課するべきではない。

原判決の述べるような拡大された安全配慮義務であれば、本件事故との結び付きが明確ではない。言い換えれば、例え学校側が原判決の説く義務をつくしていたとしても、この事故は発生しえたとしか言えないのである。このおかしな結論は、原判決が結果との関連で義務違反の具体的な内容を特定しえなかったからである。そして、本件では、それを特定すること自体不可能なことなのである。

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